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2006年05月07日

「いやしの祈りの講習会」のご案内

国際クリスチャンセンターでは毎年4月になると、新しい年度の出発点として、その年度に達成したい目標を提示し、その目標を達成する努力をしようとする人だけを新しい年度の教会員とする制度を設けております。前年度に教会員であったということには関係なく、その年度の教会員となる意思表示をすることが必要となる制度です。
達成したい目標というものは、教会を大きくしようとか、新しい会堂を建てようとかいうのではなくて、エペソ人への手紙4章に書かれている『キリストの身丈にまで成長する』というものを、段階的に進めて行こうとするものです。

聖書を書かした神の霊が、私たちに教えようとしている通りに書かれているものを解釈をし、解釈したもの(みことばの説き明かししたもの)を実践する努力をする決意を示すことによって、その年度の教会員となるという制度を、過去10年ほど実行しているのです。

この制度では、今年は教会員にならないでおこう、ということも出来るし、昨年度は教会員ではなかったけれども今年は教会員になって、成長するように努めよう、ということも出来る制度です。そして、礼拝に、聖書講座に出席してもらっています。

今年度の成長目標の1つとして、教会員全部がマルコ16章で教えている『病人に手を置けば、病人がいやされる』という約束を、現実なものにするというのがあります。
多くの教会で言われることは、教会員にいやしのやり方を教えると、そして、少しでも成果が上がるようになると、牧師を度外視するようになる、とか、教会を割ってしまうようになる、とか心配をされるという話ですが、それは、多分、いやしというものについて、方法論のみを説いている為と思われるのです。私達の模範としなければいけないイエス様のやり方を、しっかりと学び取っていないためと思われるのです。

イエス様は病人をいやす時に、『あわれみの心』を持って接したと教えています。
ところが、このことばを日本語の意味で解釈をすると、かわいそうに思うとか、憐憫の気持ちになるとかいう意味に考えてしまい、病気で苦しんでいる人を『同情する』ことが大切なのだという点を強調して、神の霊が聖書を書かした意図を(つまり、ギリシャ語の意味を)無視した意味に解釈をしてしまっていることが多いのです。

その為に、いやしの祈りをする教会員の方では、『祈ってあげる』『いやしてあげる』という気持ちを持ってしまうのです。

ギリシャ語で意味するものは、(1)苦しんでいる人を助けることが出来る力と権威とが与えられていることを認識する。(2)その人を苦しみから解放してあげたいと望む。(3)そして、行動に移す。という意味を含んだことばなのです。

この点の他に、『ただで受けたのだから、ただで与えなさい』という教えの意味についても、聖書を書かした神の霊が教えようとしている通りに解釈をしているか、という点が問題となるのです。聖書では、同じ教えのところで(ルカ10章では)『働く者が報酬を受けるのは、当然だからです』と言っているからです。

マルコ16章では、十字架の死から甦ったイエス・キリストが、『私の名で』病人に手を置けば病人はいやされる、と約束をしているのです。

ところが、十字架で大きな働きをしたイエス・キリストに、天の父は全部で3つの名を与えているのです。その中のどの名で病人に手を置くべきなのか、ということを正しく選ぶことが出来なければ、祈りは力のないもので終わるのです。

このような点について、聖書を書かした神の霊が教えようとしている通りに説明をし、その上で、『病人に手を置く』やり方(方法論)を指導することでもって、主イエス様に栄光をお返しすることが出来る『いやしの祈り』となるのです。

このようなやり方で、3年前にも講座を持ったのですが、今回、また、同じような講座を持つ計画を立てております。現在のところ、いつから始めるのか日時は決めていないのですが、6週間から8週間の予定で、講座の時間に(午後1時半より)開催する予定にしております。ご出席なさりたい方はどうぞ。詳しい日時は後ほど、本ホームページで。